2015年7月2日木曜日

鶴見線に乗って・・・

鶴見線に乗って散歩してきました。
鶴見線と云うのは東海道本線の鶴見から出ているローカル線です。
鶴見駅を含めて全13駅。 
横浜市鶴見区と川崎市にまたがる路線で行き先は3支線に分かれています。
途中、浜川崎駅で南武線に接続しています。
不思議なのは駅名が個人名であったり企業名であったりしているのが多いコトです。

それでは鶴見駅から出発!
鶴見駅は東海道本線の駅ですが東海道本線は止まらない、みんな通過です。
京浜東北線で鶴見駅から鶴見線に乗り換え。 乗換口では再び改札が有ります。もちろんSuicaOKと云うより必需品。
鶴見線内は無人駅です。ローカル線によく見られる整理券はありません。
昔は一日乗車券が有ったのですが現在は有りませんので改札を出ると結構割高??
電車は朝夕の通勤時には5~6分ごとに出ていますが昼間は20分ごとになります。
そして行き先が3支線に分かれていますので実質1時間に1本も来ない、あるいは昼間は全く来ない駅も有ります。
まあそんな時には歩くしかありません。隣の駅までは近いです。


国道駅で下車。 
駅がコンクリートのアーチ構造の高架線路の下にあります。
最近云わなくなった『一国』の脇に駅が有るから国道駅。 一国とは第1京浜国道で国道15号線。国道1号は『二国』第2京浜国道です。第3京浜国道は…もうわかりません!!(国道466号らしい)
下車したので約40分程待って、海芝浦行にのります。

鶴見小野駅 降りずに通過。あとで気が付いたのですが由緒正しい木造駅とか? 降りて見たかった・・・
駅名は江戸時代の名主・小野高義に由来する。
弁天橋駅  通過
浅野駅  海芝浦支線に入ります。
新芝浦  通過

海芝浦  終点
駅に着いたらすぐに帰りの時間を調べます。
10分ほどの待ち時間で折り返し鶴見行になります。これを逃すとおよそ2時間電車は来ません。
海芝浦駅は・・・そうです、大手電機会社・東芝構内です。社員以外降りることが出来ません。
* 駅に隣接する公園は一般立ち入りが可能です。
今回は帰り時間が少ないので駅のホームで待機。
ホームには社員らしき人が降りてしまうと、不思議な降りられない駅を記録に残すべくカメラを持った人がウロウロ!!
自分のその一員!!

浅野駅まで戻って途中下車。
浅野駅は乗換に構内の踏切を渡らなければなりません。乗り換え客はホーム脇の小さな踏切を渡ります。
駅のすぐ脇の踏切は大型トラックがひっきりなしにとおっています。
駅名は、鶴見臨港鉄道の設立者で、浅野財閥の創設者でもある浅野総一郎に由来。

安善駅  通過
この沿線では珍しい昭和がそのまま残っているそんな住宅街のある街です。
駅名は安田財閥創業者であり、鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道を支援した安田善次郎に由来。

武蔵白石駅  通過  (大川支線に入らず) 
駅名は日本鋼管創業者の白石元治郎に由来。ただし、すでに東北本線や函館本線などに白石駅があったため、「武蔵」の冠称付けています。

浜川崎駅  乗り換え  (昭和駅、扇町駅 行かず) 大川駅か扇町駅行に乗りたかったのですが数時間待ちのため次の機会に取って置きましょう。

Suicaの使い方の説明・降りるか、乗換か、それによってタッチの仕方が違います。
頭が混乱してきます。
大川駅は日本初の製紙技師としていくつもの製紙会社を興し、「製紙王」と呼ばれた大川平三郎に由来。扇町駅は町名が浅野財閥による埋立地であり、その創業者である浅野家の家紋の扇に由来。
乗換と云っても鶴見線と南部支線乗換は一旦駅の外へ出出ます。
降りる時Suicaをタッチしてしまうとまた初乗りになってしまいます。 乗換の人はそのまま出るように書いてあります。南部支線でタッチして乗ります。
南部支線は大きな貨物列車が何回も通ります。
今日は、浜川崎駅から南部支線乗り換えで八丁畷(はっちょうなわて)駅に出ます。
八丁畷駅で奈落の底へ落ちるような長い階段を下って地上。商店街へ出ます。ここは川崎市。京浜急行線と接続。
駅前の蕎麦屋で遅めの昼食。蕎麦におしんこやサラダが付いて650円也。夜は飲み屋の雰囲気。
川崎は物価が安い!!
帰りは京浜急行に乗り換え帰途につきました。
今回、運賃の精算にSuicaを使いましたが、タッチする、しないが難しい。決められた通りタッチしないと乗換駅が異なる駅に設定されたりすることが有ります。正しく使えたか???

* 路線図及び駅名由来のついてはWikipediaを参照引用しています。

2015年6月16日火曜日

普通の人は見過ごしてしまう日光

日光と云えば東照宮、華厳の滝、いろは坂、中禅寺湖・・・
小学校の頃修学旅行で行ったり、その他何回も日光へ行ってます。
東照宮はさすがに別格です。
東京の奥座敷(最近こんな言葉使わない?)と云えば日光か箱根か、昔は絶対日光が勝っていたと思うのですがどうも最近は箱根に負けているような感じ。
負けてなるモノか・・・ガンバレ日光!!ガンバレ東武!!
今回は電車の旅。【画像をクリックすると拡大されます】
東武日光線・区間快速
でも残念ながら東武鉄道はなんとなく泥臭い。
日光の街は世界遺産登録で綺麗に整備するため頑張っています。
今日は日光に残る徳川以後の景色を眺めてきました。
日光の玄関口は東武鉄道です。
東武日光駅に降り立つと不思議な町に降り立った感じ。
とてもゆったりした構内です
写真では表現しきれません。駅構内には緑がいっぱいです。
それに比べ駅舎は? 決して粗末では無いのですがホームのイメージとかい離しているような・・・ 
このゆったり広々とした雰囲気を感じるのは私だけだろうか。
駅を出たら取りあえず駅舎に沿って左の方へ進んでみましょう。
JRの日光駅が有ります。
この駅舎は 『これぞ日光』 と思えるほどの風格が有ります。
駅舎の右手奥にはガラス張りの待合室が有ります。
残念ながら内部は自動販売機ひしめき合っています。
日光駅の圧巻は入口右脇の階段です。
なんとなく入るのを拒むような雰囲気。ここは一等客専用待合室。
今はグリーン車の時代、一等客は無いので誰でもOK。
ただ残念なことに今は綺麗なホールが有るだけ。隅には使われていない椅子が積み上げてある。
階段口の風格が災いして2階に上がる人が少ないのでしょう。
この日光駅もその価値を全く生かすことが出来ていないのです。
この価値を生かしていないのは日光全体に云えることかもしれません。
ガッカリ感を残しつつ東武日光駅前広場に戻ります。
JR日光駅前にもバスは来ますが本数が少ないのです。
どのバスでも良さそうですが 『神橋』 (しんきょう)へ行くか確認して乗り込みます。

神橋は二荒山神社の入口、東照宮と隣接です。
神橋はその構造が特異で両岸からせり出した橋桁に中央部を載せてあります。構造に興味のある方は必見です。
有料ですがわたることが出来ます。
駅前から神橋まではずっと上り坂です。そのためバスを使いました。帰りはこの坂を歩いて帰ります。
神橋でバスを降りたらその脇の急坂を上ります。昼も近いので140年の歴史を誇る 『金谷ホテル』 でランチにします。
140年の歴史は素晴らしいモノでそう云う風格に慣れない私は圧倒されます。
ロビーの左手奥にラウンジが有りますのでそちらへ入ります。2階にはフルコースのメインダイニングが有るのですが私のお小遣いでは・・・
ランチは一つ覚えの100年カレーを注文。
帰りはロビーで歴史的記念品の展示を見て一休み。
ホテルには売店も有りますが横目に見て素通り。
坂道を転がらないように降りて国道に出た角。
そうです駅前の通りは国道119号でした。
日光物産商会【登録有形文化財】に立ち寄ります。 
店内はいわゆるお土産屋さんですが食事も出来ますし、金谷ホテルのパンも販売されています。
創業当初は金谷ホテルの土産店として営業開始。昭和の初頭、日光物産商会として独立したようです。
店内至る所風格を感じさせる、展示物もいろいろ、立ち寄る価値が有ります。
駅に向かってゆるい坂を散策右手奥に見え始める立派な建物。
日光市・日光総合支所。
現用中の市役所施設です。 
市役所ですから平日なら自由に入ることが出来ます。でも観光施設ではありませんので見物には充分な配慮が必要でしょう。
帰り際、坂道の陰に素敵な教会が!
カトリック日光教会のようです。教会ですから内部を見ることも可能と思われますが今日はパス。
国道をさらに南へ新築の消防署。
文化財の多い街だけに消防自動車も沢山あります。街並に合わせるようなデザインの建物ですが歴史の重みには勝てません。
気が付けばあちらこちらで古い建物の修復や改築がされています。
そして不思議な光景が目に付きました。
家の前に色々なお宝を並べています。骨董品屋さんではなさそう。
 『父親が集めたモノを整理している』 と云う若奥さんが居られました。
どうやら街並み保全で修復や改築が進んでいるようです。それでお宝の整理も・・・
骨董好きの人には滅多にないチャンスかもしれません。
中禅寺湖まで行けばさらに隠れた歴史的遺産が見られると思いますが、今日は駅に戻って帰途につきます。
快速の時間に間に合わず。
のんびり各駅停車で下今市へ。
そしてまた乗換。各停列車は直通が無くこま切れです。
下今市では、すぐに来た特急、乗らずに次の各停を待ちます。
暫く待ってきた電車はまたまた特急。
各停乗り継ぎで家に帰り着いたのは17:30頃でした。
往路は快速でしたから2時間ほど、帰りは3時間ほど。
日光駅周辺、まだまだ見たいところが有りました。でもこの次来た時には古い建物、古い景色が無くなってしまいそうな感じがします。
世界遺産の街、ドレスデンのようになってしまわないか、日光は大丈夫か心配です。
*ドレスデンは利便性のため新しい橋を架けたため、世界遺産抹消の危機。その後どうなったか・・・


2015年6月5日金曜日

ついに泥沼へ GM5を買ってしまいました。

GM5はちょっと個性の強いLUMIXのミラーレス一眼です。
オリンパスのC-900から始まったデジカメ遊びが泥沼の様相!!

C-900の現れる少し前、フロッピーディスクカメラ マビカとかQ-PICなどが売り出されたのですが友人のを借用して遊んでは見たモノの買うまでには至らず。
本格的デジタルカメラ C-900が発売され我慢しきれず買ってしまったのです。
今考えればおもちゃのようなモノ。 すでに下取り品として他機種に交換。
その後はコンデジ・こんな言葉は無かったけどコンパクトカメラのデジタル版、便利さにはまり10台くらい乗り換えたでしょうか。
そして今、私が普段使ってるカメラは CANON G12 です。コンデジと云われるモノの中ではチョット大き目。
LUMIX FX5
一眼レフは銀塩時代だけでデジタルは買っていません。
私のカメラの使い方・・・そんなこだわった写真を撮る訳でもなく、旅の記録みたいな写真ばかりです。
旅先で次の予定を気にしながらの写真撮影ではレンズ交換は至難の業。 旅行会社企画のパックツアーでは迷惑をかけること必至です。
そんな私にはコンデジが最適!
★ このFX5は電池切れで現在使えません。
コンデジは時代を反映した凄いカメラです。
小型で軽い、ワイドも望遠もそしてマクロも。
そんなカメラを追いかけていたのです。
なんでもOKと云うモノは結局詰めが甘くてなんとなく物足りないのは仕方が有りません。
★ MINOLTA A-200 MINOLTAの最終っモデル?

その流れの中で少し大きめ、今でも使っているのは CANON G12。コンデジと云うには少々大きいのですが電池の持ちや機動性も気に入ってます。
もちろん写りも十分。
このモデルもさらにブラッシュアップされていますがまだしばらくこのまま使いたいです。
★ NET用の写真に活躍しているFINEPIX-F100 脇にあるレンズは自作の接写用アダプター。 以外に便利!


そんな折、友人が見たいカメラが有ると云うので秋葉原の大型カメラ店へ行ったのです。
友人が見たのは最近流行の ミラーレス一眼。
そんなものより G12 のほうが良い。(現在G12も随分進化しています)
そう思い続けていたのですがその中に機能性だけでは無い面白さを見つけてしまいました。
G12の唯一の欠点は機械としてのカッコ良さ、面白さがが・・・
G12はその後のブラッシュアップで随分カッコ良くなってはいますがイマイチ気になっていたのです。
それでもG12は機能が優っていたせいか交換せず使っていた理由かもしれません。
ミラーレス一眼は一眼レフの高機能性を残しながら余分な機能をそぎ落とし使いやすさを追求したモノ??  と云うには犠牲にしたものが多すぎ、それでいてお値段はそれなりに高い。
手軽さを追求したコンデジとは明らかに違います。
ミラーレス一眼には “カッコ良い” 衝撃的機能美が有ります。
さて衝撃を受けたミラーレス一眼。
赤や黄色など派手な一見カメラとは思えない凄いモノが有ります。
手に取って見るとこれまた軽い。
一眼レフの 『腰を入れて撮る』 ような重々しさはありません。
コンデジのような軽い気持ちで使えそう。
それでいて精緻なメカの雰囲気はばっちりです。

気に入った カッコイイヤツ のカタログを手にしていたのは云うまでも有りません。
家に帰ってスペックを見直し面白さと欠点が見えてきました。
一眼レフより一回り小型で軽く今までのカメラとは違った雰囲気が有ります。
半世紀前、トランジスタラジオが流行ってポケットトランジスタの歌に酔いしれ街を歩いていた、そんな雰囲気です。
小さいための欠点も有ります。今どきの若者には確かに小さすぎるかもしれません。
無数のSW類がひしめき合って持っているだけでSWを押してしまうコトも有ります。
それでもその緻密さが私を狂わして行きます。
LUMIX GM5
いつの間にかLUMIX-GM5が私のポケットに収まっています。
賢い友人は未だ手を出さない!!」
小さいために犠牲となった部分。絶対に残したい機能。それらはメーカによりずいぶん違います。
コンデジでも付いているこんな機能が有りません。
バリアングルのモニタが無い。(頭越しの撮影には便利)
シャッターのリモートSWが無い。(wifiでスマホから出来るけど・USBでワンタッチのSWが欲しい)
交換レンズのグレードが高すぎる。(私の貧しさです)
ハイグレードレンズのお蔭でポケットには収まらない。(最悪の結果)
まるでお化けのように大きいレンズです。
このレンズは14~140mm(35mm換算28~280)と云う広範囲のズームで、よほどこだわりが有る場合を除き対応できます。
大きすぎる不満も小型化と高機能の狭間の問題です。
メーカによっては小型のレンズも有るのですが、もちろん性能にも影響してきます。無理してしまいました。
多少の不満がオプションによって解決される、これが一眼レフの魔術なのか??
GM5は個性の強いカメラでオプションも高いのが気になりますがそれなりに面白さを味わっています。
オプションがどんどん増えればそれだけ重装備になって手軽なはずのミラーレス一眼の価値が薄れそうな気もします。
各メーカもそんな使い手の気持ちを見透かすかのようにいろいろなモデルを作っています。
それらは相互の互換性が無いモノも多くどれが標準機として生き残れるかも判りません。それがミラーレス一眼に課せられた課題でしょう。




2015年4月29日水曜日

平成の新進看板建築

町の商店街に見られた『看板建築』の話です。

東京亀戸天神の藤まつりに行った帰り道です。
往路に通った時気になるモノがチラリと目に入っていたのです。
気になってその道を曲がりました。香取神社参道です。

その通りには、今では珍しい看板建築のお店が並んでいます。
看板建築と云うのは、大正末期から始まり、関東大震災のあと大人気になって商店街に現れた独特の風貌を持つ店舗建築です。
戦後の看板建築
江戸時代から明治時代に続いた『出し桁造り』は、老舗と云われたお店の多くが震災で崩壊しました。
力のあるお店はコンクリート造に、普通のお店は木造の2階建てに、改築されたのですが、少しでも立派に見えるように店舗前面に3階建てに見えるような壁面看板を付けるのが流行りました。
木造3階建が禁止されたことも大きな理由でしょう。
この看板にはいろいろな飾りをつけたり石造りと見まごう作りにして店の風格を上げる工夫をしました。
しかし、それも戦火で焼けたあとは次第に質素なものに変化し、さらに近年の物流界の変化でそのようなモノへの関心が薄れていました。
商店街の客離れが進み、殆どの看板建築が消えて行く中、立派な看板建築を見つけました。
全盛期を思い起こす、レトロな看板建築
銅板などで装飾された壁面に OO商店 のような書き込み、あるいはモルタルで鏝絵のような装飾を作ったモノまで・・・私が子供のころはたくさんありました。
香取神社参道で見たモノ、それはどこか違います。
色使い、デザインが今風です。
未確認ではありますが、地域振興のため装飾を更新した新進看板建築のようです。
それを倣ってか新しい看板作りも進んでいるようです。
この家は3階建。
一般的に看板建築は木造2階建て、見立てを考え高い看板壁を付けています。
地元商店街が陳腐化する中、新しいスタイルの看板で頑張っています。
業種による営業時間の問題も大きい。
地域振興が叫ばれ行政もいろいろ考えているようですが、これはなかなか難しい問題でしょう。
この商店街は結構人通りも多く賑わいを取り戻しているように見えます。
しかし良く見ると業種が偏っています。
なんでも揃う地元商店街が特定業種しかない『間に合わせ商店街』になっているような気がします。
これは心配です。
『間に合わせ商店街』になってしまうとその時必要なモノしか買わなくなり、採算が悪くなっていきます。そうなると行く先が見えてしまいます。
10年20年の延命措置は出来ても次世代に続く永続的な延命は・・・
時代に即した業種に転換したり、地元客だけでなく観光客にも対応できる商店街づくりを期待します。


2015年2月17日火曜日

新発見・巣鴨の栄螺堂

仏教建築の栄螺堂(さざえ堂)、現存するすべてを見たつもりでいましたが最近になって見落としが有ることに気が付きました。
長崎県島原市にある理性院大師堂天如塔(てんにょとう 長崎県島原市) と
鴨台観音堂(おうだいかんのんどう 東京豊島区)です。
天如塔は1910年建立と云われ市の文化財に指定されていたにもかかわらず老朽化が進んで廃虚の状態でしたが2014年5月修復が完了したとのこと。島原市は遠いのでおいそれとは行けません。
https://www.facebook.com/karayukisan.tennyoto
一方、鴨台観音堂は巣鴨ですから近いです。実は正月に行ったのですが内部に入ることが出来ず再びの訪問です。
とげぬき地蔵で有名な巣鴨、地蔵通り商店街を通り抜けます。
『おばあちゃんの原宿』と云われるとおり歩いている人は年寄りが多い。私が若く見える・・・

街の賑わいが何となく変わってくる頃目的の栄螺堂が見えてきます。
通りのサインはいつの間にか庚申塚商栄会。栄螺堂はこの先大正大学構内に有ります。



大正大学の敷地には何の仕切りも有りません。昔の大学は何処も出入り自由だったと思います。
学生運動が激しくなったころ学校管理が出来なくなって高くて、乗り越えることが出来ない、強固な塀が出来てしまいました。おおらかな時代の終焉です。
でもこの大学にはそのおおらかさが残っていました。すれ違う学生の顔も和やかな感じです。
栄螺堂の脇にタコの置物が鎮座しています。入学祈願の絵馬も沢山あります。
そうです。タコの置物は『置くとパス』Octopus→置くとpass ちょうど受験シーズンでした。
鴨台観音堂(栄螺堂)は大正大学の学内施設ですが通常は誰でも拝観できます。
平成25年(2013年)5月18日完成と云われています。
二重螺旋構造の八角三匝(三層)ですが外観は五層にも見えます。登り階段の下に下り階段が二層になってるようです。一度通った道を再び通ることなくお参りが出来るようになっていて後方の出口に抜けます。

般若心経の書かれた階段を上り頂上階には聖観自在菩薩をお参りすることが出来ます。
入口からつながる五色の糸は聖観自在菩薩との結縁、鴨台観音拝観記念としていただきました。
宗教心に疎い私ですが建築の面白さを味わことが出来ました。
残念ながら内部写真の撮影はできません。
★ ちょっと寄り道 ジョイフル三ノ輪商店街

巣鴨には唯一の都電が走っています。その昔、都内を縦横に走っていた都電はこの荒川線(早稲田⇔三ノ輪橋)を残しすべてが廃止されてしまいました。
この都電沿線には気取らない昭和が残っているように思います。
新庚申塚から乗って終点の三ノ輪橋へ。 駅のホームから直結の喫茶店でチョット一休みしました。
都電のイラスト入りホットケーキです。
一休みして元気が出たので昔風商店街へ。
心を込めての商売が見える商店街です。
でも人通りの少なさが気になりますね。
最盛期の立派なアーケードを残してはいますが時代の流れには勝てず無機質で錆びの目立つシャッターがあちらこちらに。
哀愁を感じながら地下鉄で帰途につきました。



2014年10月16日木曜日

北九州島巡り・目的は軍艦島

九州の北西部は小島の多い所です。
韓国に近い対馬や壱岐、五島列島などは行ったことが有るのですがまだまだ沢山の島々が有ります。無人島も多く、そのすべてを巡ることは困難ですが・・・
今回偶然にも見つけた島巡りツアーに参加してみました。
旅行会社の企画ツアーは盛りだくさんで忙しかったり興味あるところでの時間が短かったりしっくりしないことも有りますが列車や船舶との乗り継ぎが上手にアレンジされてとても便利な部分も有ります。
最終目的地 炭鉱の島【軍艦島】
今回は軍艦島がそのコースに含まれることと便利さに惹かれての参加です。
これから訪問する島々の面白味はその景色だけでは無く独特の文化が有ることです。
古くは中国との関わりが有ります。
そして北九州のこの一帯は江戸時代のキリシタン(キリスト教)禁止令によって隠れキリシタンと呼ばれる独特のキリスト教文化が生まれたところでもあります。
平戸のザビエル記念館

今回のツアーには含まれませんがキリスト教文化・隠れキリシタンに触れたい方は五島列島もお勧めです。
途中立ち寄った九十九島(くじゅうくしま)、佐世保市の西側(西海国立公園)に位置する沢山の小島から成り立つ群島が有ります。
島の数は208島と云われ九十九よりはるかに多くの島が有ります。
秋葉原によく行く私はツクモ(九十九)電機の印象が強く此の島もつくも島と思っていました。ガイドさんに聞いたら同じ字を書く九十九(つくも)島は島原半島の東側でした。
名物の九十九島せんぺいは くじゅうくしませんぺい ・・・頭が混乱してきました。

私の見たかった軍艦島は正式には端島と呼ばれる孤島です。
軍艦島はその島を遠くから見たとき軍艦のように見えるその姿から呼ばれるようになった通称です。
長崎市の南西、長崎半島の先端、野母岬の北側に位置します。
そして隣の高島は軍艦島に関する資料館などが有ります。
上陸には誓約書が必要

軍艦島へはいくつかのクルーズ会社が有るようですがそのどれかに予約をしないと上陸できません。
『カサを使ってはいけない』 とかいろいろ約束事が有ります。
それに対し誓約書をとられます。
*画像をクリックすると拡大します*
島の様子はgoogleのストリートビュウでも見られます。便利になりましたが映像では感じられない部分が有るでしょう。 
*詳細はlinkを参照ください。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E6%B8%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%AB/@32.6265739,129.7380875,18.69z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x8367dccd4b9f26c3

船着き場はコンクリートの突堤で外海に面しています。防波堤はありませんので天候が悪いと着岸できません。また船着場から島内に入るゲートには施錠されています。
島内では見学コース以外立ち入り禁止ですが上陸すればその意味が解ります。
建物は老朽化が進みどれも崩れそうなものばかりです。


軍艦島は石炭産出のために構築された炭鉱の島ですが島の原型は小さな岩礁でした。
*詳細はlinkを参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)
江戸時代には石炭が採れることを知られていたようですがその後開発が進み、日本のエネルギ政策の下、数万人の人口を有する超過密石炭島になったのです。
炭鉱は地下深く海底に広がっていたことは想像できますがこの炭鉱施設の他、家族ともども島内に居住するため幼稚園、学校、生活用品の販売所、宗教施設までも作られていました。
このような島で生活するために水道、電気、生活用品等は本土からパイプラインや船舶による供給のみに頼っていたのです。
九州は台風の通り道でもありますから物資の供給が断たれることがしばしばあったと想像できます。
なぜこのような不便を押して多くの人が住み着いたのでしょう。
炭鉱はとても危険な場所です。
しかし生活のためには社宅や光熱費が無料であったため背に腹を変えられず多くの労働者が住み付いたと思われます。この島は戦前戦後の貧しい時代の遺物なのです。
苦しい仕事でも何事も無ければ結構豊かな生活にみえました。
島内施設に宗教施設と書きましたがハッキリ云えば葬儀場と書くのが正しいように思います。多くの犠牲者が出た島でもあります。それでも島内には火葬場は無かったと聞きました。
朝、『行ってらっしゃい』 と見送ればそれが最後の別れとなることを、多くの人たちが覚悟しての見送りだったのです。

戦中戦後の無理な出炭の結果か、度重なる大事故を経て国のエネルギ政策の転換を迎え閉山となります。

今、島にはだれも住んでいません。
往時をしのぶ沢山の建物は潮風の吹き付ける環境に耐えられず鉄筋コンクリート造でありながら真っ赤にサビて針金のように細くなった鉄筋にやっと支えられている状態です。嵐の度にあちらこちらで崩壊が起こっているようです。
あと10年、20年、の後にはすべてが崩れ落ち、多くの人が命と引き換えに我々の生活を支えてくれたことを忘れてしまうコトでしょう。

今、この命と引き換えの歴史を保存するべきか、真剣に考えている人がたくさんいます。
残り少ない石油、暴れだしたら手に負えない原子力、どうしても採算が取れそうにない再生可能エネルギー、将来のためにどれを選ぶか考えなければなりません。間違えれば第3、第4の軍艦島を作ってしまうコトになるでしょう。 第2の軍艦島はご想像にお任せします。